医薬品製造の現場で、いち早く最新デジタル技術を取り入れているタケダ。これまでビジネスシーンで活用されることのなかったXR(仮想現実VRや拡張現実ARなどのデジタル技術の総称)の導入、データの“見える化”によって現場ではどのような変化が起こっているのか。山口県の光工場で行われている、デジタル技術による改善プロジェクトを紹介します。
無菌室環境を
仮想空間に作り出すVR
山口県にある光工場は、医薬品の原薬から製剤・包装まで行い、また、抗がん剤やワクチンなど多岐にわたる製品を製造する。世界各国に30ヶ所以上の製造拠点を持つタケダにとって、グローバル生産体制の中核を担う存在だ。
この光工場では、あらゆる課題を解決するために最新のデジタル技術を活用しており、その役割の中心にいるのが、ビジネスエクセレンスの高井と守谷だ。高井はVRプロジェクト、守谷はARプロジェクトの導入をリードした。
無菌製剤の製造にはさまざまなテクノロジーが導入され、プロセスの自動化が図られている。しかし、依然として人に頼らざるを得ない繊細な部分も存在し、これらの製造作業は人が無菌室に入って行う。
その作業ができる人材を育てるためには、当然、無菌室内でのトレーニングが必要となる。
ところが、無菌製剤の製造中はもちろん、たとえ製造ラインを止めているときであっても、安全性の観点から、実際に製造に関わる必須人員以外は無菌室に立ち入ることができないため、製造と人材育成の両立が困難だった。
そこで、高井が活用したのがVRだった。
ゴーグルをかけると、そこには仮想とはいえ無菌室と同じ空間が広がる。仮想空間内では製造時の体感学習ができ、座学で得た知識を実践できるため学習者の理解度が深まった。
実は、高井自身は製造に関わるスタッフではないため、これまで無菌室に足を踏み入れたことはなかった。
「VRプロジェクトを通して現場の方たちとディスカッションを重ねながら勉強させてもらい、無菌作業の繊細さ、大変さが分かるようになり、現場の方の気持ちに寄り添って考えられるようになりました。少しでも役に立てたことが、ビジネスエクセレンスとしてのやりがいになっています」
技術移管や教育ツールとしてAR技術を導入
一方、インドにあるタケダの工場へ医薬品の製造技術を移管するために使われたのが、守谷が導入を決めたARである。
「ヘッドマウントディスプレイ用のAR映像を簡単に作れるようになり、各部署にAR技術が使えることを知らせたところ、技術移管を担当する杉尾さんが使ってみたいと手を挙げてくれたんです」
この時期、世界では新型コロナウイルスによるパンデミックが始まっていた。
これまでの技術移管は直接現地へ赴いてのレクチャーが必須だったが、インド政府によるロックダウンで渡航制限がかかったため、現地に行かずにプロジェクトを遂行できる手段を模索していた。
杉尾はそのときの状況をこう語る。
「最初は実験の様子をビデオで撮影しようと考えましたが、ARを使うと、両手を使って実験しながら目の前に必要な情報を表示できます。非常に効率的で、重要工程の認識の齟齬が起こりにくいと思い、すぐに導入を決めました」
従来は現地の技術者を集め、数日間かけて指導していた。ましてや海外ともなると移動を含め1週間以上も現地にいることになる。ところが、ARであれば現地への移動は不要。
さらにコンテンツをサーバにアップしておけば、時差も関係なく、現地の技術者が自分にとって必要なタイミングで実験を進めることができるため、遅延なしに次のステップに移行できた。
「今回コンテンツを作ってみて、ARは技術移管にかかわらず、教育ツールに最適だと感じました。今後もさまざまな場面で活用し、横展開をしていきます」
3Dプリンタも、光工場では当たり前のように使われているデジタルツールだが、そこには医薬品製造工場ならではの理由がある。
医薬品の製造機器は外に持ち出すとホコリなどが混入してしまう可能性があるため、組み立てやメンテナンスなどのトレーニングは、クリーンエリアである製造ライン内で行っていた。
このトレーニングを改善するために守谷が活用したのが、3Dプリンタだった。
「製造エリア内で使用している部品と同じモックアップをエンジニアリング部に設計・造形いただき、外でもできるようにしました」
さらに、あらゆる細かいパーツの調達でも3Dプリンタが活躍する。これまでは外部のベンダーに部品を発注すると届くまでに数週間かかっていたが、簡単な部品であればわずか数時間で作ることができる。
数週間から数時間へ。トレーニングの時間のロスは大きく改善された。
改善のプロフェッショナル
集団、ビジネスエクセレンス
ビジネスエクセレンスとは工場内のあらゆる改善に取り組むプロフェッショナル集団だ。現在、光工場のビジネスエクセレンスには8名の担当者が在籍している。
業務プロセスの効率・効果を磨き上げる「オペレーショナル&ラボ・エクセレンス」、製造から出荷、患者さんに薬を届けるまでを効率化する「エンド・トゥ・エンド・サプライチェーン」、デジタルツールやデータ解析による改革に取り組む「デジタル」、工場で働く人の気持ちや職場文化を改善する「ピープル・カルチャー・チェンジ」の、4グループに展開して日々改善を進める。
「デジタル」を担当する高井と守谷は、常に最新のデジタル技術の情報を集め、活用事例への知見を深めながら社内の課題解決に挑む。医薬品の製造とデジタルは一見かけ離れた存在に思えるが、守谷は「デジタルは医薬品製造のゲームチェンジャーになる」と断言する。
「デジタルテクノロジーを掛け合わせることで、これまでの発想では到底思いも寄らなかった改善策につなげることができます」
データの“見える化”が
もたらす未来
そして今、守谷が特に力を入れているのが、情報の“見える化”である。廊下の壁に掛けられた、ひときわ大きなディスプレイ。
この画面は、膨大なデータから必要な情報を抽出し、グラフや表に変換して表示するデジタルダッシュボードが使われており、その日に光工場で働いている人数や使用電力などの基本情報や製造状況など、あらゆる情報をリアルタイムで映し出している。
データ解析の専門家であるデータサイエンティストがプログラミングを担当し、守谷と連携してこのシステムを構築した。
「ダッシュボード自体はオーストリアのリンツ工場で開発・利用されていたものを、これは便利だと思って導入しました。国内に限らず海外の工場とも改善事例の情報共有をできるのが、グローバル企業であるタケダの強みです。今回のケースとは逆に、日本の工場の改善策が海外の工場で導入されたこともあります」
さらに、守谷はリアルタイムの製造データをARで表示する「IoT/ARプロジェクト」を進めている。
「ARに組み込むことで、工場内の機械の温度や回転数といったデータが、ヘッドマウントディスプレイの画面上に表示され、一目でわかるようになります。今までは熟練のオペレーターが長年の勘でやっていた部分を、データに基づいてコントロールできるようになります。また、申し送りの際に、昨日この工程でこういうトラブルがあった、と該当事項を表示し、注意喚起を促すことも可能になります」
作業の効率化も期待できるという。
「工場内では手順書を見ながら作業することもあります。1冊で40~50ページある作業書を数冊持ち込んで、ページをめくりながら作業していたのが、ARを活用すれば、両手を使って作業しながら手順書を見ることが可能になります。これは大きなメリットです」
このプロジェクトは2022年春から始動を予定している。
「リアルタイムのデータはクラウドのサーバ上に蓄積され、そこからパソコンに通信するシステムはすでにできています。仕組みとしては、その通信先をヘッドマウントディスプレイへと替えるだけなので、予定通りスタートできそうです」
働く人、そして患者さんのためにデジタルを活用
光工場をはじめとする製造現場でのこのような取り組みを成功に導いているのは、技術ファーストではなく“現場ファースト”の考え方が根付いているからだ。
「どんなにすごい技術でも、現場の人が使えなければ意味がありません。デジタル技術はあくまで現場の課題を解決する手段ですから、実際に使う人が“私でもできる”と思えることを大切にしています」と守谷は成功の秘訣を教えてくれた。
高井と守谷にとって、現状の改善はあくまで通過点に過ぎない。
「光工場でもデジタル技術による改善の裾野はどんどん広がっていますし、会社にもそれをサポートしてくれる土壌があります。工場で働く人の作業の負担を減らすことが、その先にいる患者さんの笑顔につながると信じています」と、守谷は言う。
光工場で製造している医薬品の先には、患者さんがいる。高井もその意見に賛同する。
「他業界で活用されているデジタル技術や、試したことのない手法がまだまだたくさんあると思うので、今までのやり方に固執せず、患者さんのために何ができるかを考え、これからもビジネスエクセレンスとして邁進していきたいです」
タケダの挑戦はこれからも続いていく。
PROFILE
光工場
ビジネスエクセレンス室
高井 美貴
アジャイル・改善活動の推進役として、改善活動とプロジェクト管理を担当。リードタイム改善や、グローバルデジタルチームと連携しVR教育を担当する。
光工場
ビジネスエクセレンス室
守谷 隆一
光工場内の全デジタルプロジェクトのリーダーとして、プロジェクト管理を担当。ビッグデータの解析プラットフォームや、IoT/XRなどのデジタルツールの導入を、現場との密な連携を通して推進している。
※所属は撮影当時のものです